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自分史(クロロ96)[*まとめて読む]

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小学生

「小学生」写真

小学生の頃は昆虫や爬虫類・両生類を行く捕まえに毎日。

その中でも特にクワガタが好きで夏は毎日のようにクワガタを捕まえに行ってました。ほか好きな生物はザリガニ・カマキリ・カメ・魚とありとあらゆるものを捕まえていました。 自分の中で自慢できるものがあるとすればパチスロとクワガタ捕りでした。しかし今は両方やっていません。

小学6年になってから受験勉強をし始めました。見事、希望の中学に受かりました。

中学生

「中学生」写真

最初はサッカー部へ入ったけど予想以上にしんどくて、部活ばっかりで勉強どころではありませんでした。しかも経験者が多くて自分よりうまかったです。そして根性がなく中2の途中で辞めてしまいました。勉強と部活を両立してるやつもいる中、自分はどちらもダメでした。

辞めてからはろくに勉強もせずにゲームばかりやっていました。友達とゲーセンに通ったり、家でRPGをずーとやってました。通っている中学がエスカレーター式なのでそのまま高校に行けました。(補習は常連でした。)

高校生
(15~17歳)

「高校生」写真

こりもせずまたバスケ部に入りました。調度スラムダンク(漫画)が流行っていたのと、身長も153cmから176cmに伸びたのが理由です。

バスケ部も厳しい練習だったけど仲のいい友達も居たので何とかやれそうでした。しかしまたしても根性の無さとパチンコと遊びに目覚めてしまい、高1の2学期で辞めてしまいました。クラスにダブっていた先輩がいてパチスロを教えてもらいました。

朝はパチンコ屋に行ってから学校に行ってました。その当時のパチスロは朝行くと始めから当るようになっている台が何台かあったのです。1回かかるとだいたい5千円くらいでそれをすぐに交換したり、周りが出ていたら粘ったりしてました。

そして毎日のように街に繰り出して喫茶店に溜まったり、洋服を買いに行ったりしていました。パチスロで稼いでいたのでお金はありました。ちなみに学校は私服でした。

家に帰るのも遅く当然勉強の方もサッパリでした。母にも散々怒られては喧嘩をしていっぱい迷惑をかけました。父は家庭のことは母に任せっきりでしたが、怒った時はかなり恐かったです。

当たり前のように2年で留年してしまい、最初は頑張ろうと真面目に行っていたけど、やっぱり長続きはせず高校を辞めてしまいました。(最終学歴 高校一学年終了  定時制などに行く時は2年からスタートできる。)

パチスロ
(17~19歳)

「パチスロ」写真

学校を辞めてからも毎日パチンコ屋に通いました。10時開店に毎朝並んでました。

もちろん基本は朝のパチスロですが、それ以外にも新装開店に行ったり羽モノもやったりしてました。

このあと東京に行くことになってからもパチスロで稼ぐことに。

東京
(19歳~)

「東京」写真

昔から東京の憧れがあったのと、その時に先輩がちょうど東京で飲食店をやることになったので便乗して行くことになりました。

行く前から分かっていたけどおばあちゃんの家が仕事場からすぐのところにある最高の条件でした。店が休みの時は朝からパチンコ屋に行ってました。しかし店の売り上げが悪く3ヶ月で潰れてしまいました。潰れてから先輩は京都に戻り、自分はパチスロで稼いでいました。

以前からおばあちゃんの家に泊めてもらっていたのですが、帰りが遅かったり夜中まで電話をしていて眠れないという理由から口論になり家を追い出されました。おじいちゃんは昔から優しくて怒られた記憶もないです。おじいちゃんはそっと寝袋を渡してくれました。

以前に下北沢に来た時から良い町だと思い、東京に住むなら下北にしようと決めていました。しかし頭金を稼がなくてはなりません。京都でも先輩に保証人になってもらって家を借りた経験があるのでだいたいの仕組みは分かってました。

しかしお金を貯めるとなると話は別です。ある程度お金が出来るまでは無駄づかいは出来ません。 朝から閉店までパチンコ屋に居てそこから寝床探しです。パチンコ屋には大きなリュックを足元に置いてやってました。(寝袋・着替え入り)

ベンチで寝ていて警備員に起こされて「今日だけ寝かして」と交渉して仲良くなったり、時には映画館のオールナイトで寝たりと、こんな生活を3週間ほど頑張りました。

少しお金に余裕が出てきてそれからは毎日安いカプセルホテルに泊まってました。(シャワー、トイレ共同・2段ベット)さらに余裕が出てきたので、朝ご飯をコンビニのパンからファーストフードのモーニングセットに変わりました。

やっと目標金額(頭金+パチスロの軍資金)が貯まりました。しかし保証人になってくれる人が居ないので、母に訳を言ってわざわざ来てもらいました。やっと自分の借家です。

家を借りるのにかなりのお金が無くなったので朝はパチンコ、夜はコンビニ深夜の二刀流で働きました。この時の睡眠時間は人生で一番短い時期でした。徐々にお金の余裕が出来始めてコンビニを4ヶ月ほどで辞めてパチスロ一本だけにしました。

いつも途中で逃げ出していた自分がやっと見つけたモノ「パチスロ」でした。

パチスロに限界
(24~25歳)

「パチスロに限界」写真

母親に仕送りを出来るくらいまで稼げるようになりました。しかし2001年の目標をあっさり達成してしまい、パチスロはほどほどにして、新しいことを探してみたのだがこれがなかなか見つからない・・・

株に興味をもち、図書館で株の本を借りに行く日が続きました。そういえば母親が昔、証券会社に勤めていたので、自分からはあまりかけない電話をすると、株の本を送ってくれることに。だけどサッパリわからず投げ出してしまう根性無しの部分が出てしまいました。

母親の死
(26歳)

「母親の死」写真

父と母は別居中でした。そんな中、父親から電話がかかってきました!母親の体調がよくないらしい。

母親は昔から高血圧で体がよくなかったです。すべて自分が心配を掛けたせいだと思っています。だからと言っちゃなんですが、罪滅ぼしまではいかないけど仕送りをしていました。

新幹線で向かっている途中、父親からの電話で『お母さん死んだらしい』いう通達がありました。あまりにも急な出来事でした。

母親の部屋を掃除していると昔の日記が出てきて、そこには『今日(自分の名前)と買い物に行きました』、『今日は(自分の名前)がカブトムシを捕まえてとても喜んでいました』といった自分のことしか、つづられていない日記が出てきました。

自分が愛されていたと実感した瞬間、目から涙があふれてきて、生まれて初めてこんなに泣きました。

近くに俺が居てやればこんな事にはならなかったのに・・・(後悔しました)

部屋がグチャグチャで友達にも片付けるのを手伝ってもらいました。その時に助けてくれた友達とは今でも親友です。

悲しみを乗り越えて
(26~27歳)

「悲しみを乗り越えて」写真

最近は夕方に起きて夜中に帰って来るというダラダラとした生活です。 自分の中で母親の死は封印して、思い出さないように努力しました。ほとんど仕事をやらずに貯金で遊んでいました。

今考えると母親を忘れるために、遊んだりしていたのかもしれません。そういう中で知り合った人が居ます。○○さんはお店を経営していて、福岡にもお店をオープンするので手伝ってくれないかと言われました。当然、何もしてないのでその場で『行きます』と言いました!

ラーメン屋で倒れる
(2003年12月7日 27歳)

「ラーメン屋で倒れる」写真

知り合いがお店をオープンするということで、手伝いに行った時のことでした。東京から飛行機で福岡まで行き、仕事だがワクワクしていましいた。お店をオープンするのでビラ配りや、周辺の調査などセッセと働いていました。夜は○○さんが色々美味しいものを食べに連れて行ってくれて、仕事も苦じゃなかったです。

それがあんなことになろうとは・・・

ラーメン屋で突如わけの分からない出来事が起きました。最後までスープをすすったその瞬間、突然自分の体が制御不能になり痙攣を起こしました。そのまま気を失って隣に居る○○さんに倒れこみました!

初めて救急車に乗りました。(その時の記憶は全く覚えていないです)そして地元の病院に運ばれ、一泊することなったのです。人生初めての入院でした。「CT」の結果、脳に何かがあるらしい。急いで東京に戻り紹介された大学病院に行きました。(○○さんは急遽、一緒に東京まで乗ってくれて心強かったです。お店のこともあったのに・・・)なれない検査をやらされ、即入院手続きをすることに。

なんと自分の頭に腫瘍があるそうです。「脳腫瘍」と呼ばれるもので、いわゆる脳の癌みたいなものです。

星細胞腫(アストロサイトーマ)
(2003年12月9日 27歳)

「星細胞腫」写真

「MRI」の結果「星細胞腫」が左の大脳にあることが分かりました。右脳を採ると左半身に、左脳を採ると右半身に影響がでるみたいです。自分は右利きなので何で左に腫瘍があるのかと、この時は思いました。

テレビでよく見るシーンの『親族の方・・・』みたいな小さな部屋に父と入って画像を見せてもらいました。そうすると福岡で仮に撮った「CT」よりも、すごく鮮明に影が写真に写っていました。

先生にいろいろ説明されました。自分の「星細胞腫」は「グレードⅡ」が90%でグレードⅢが10%くらいと言われました。いまいちピンときませんでした???

初めての手術・六人部屋 
(27歳)

「初めての手術」写真

本格的に入院することになりましたが、周りには自分より年上ばかりでどういう話題をしたらいいか、サッパリわからないです?そこで入院したことを友達にメールで知らせると、芋づる式にいっぱいの友達が来てくれた。

いい友達ばかりで(毎日誰かが来てくれた)退屈はしなかったのですが、色々物を持ってきてもらって、逆に申し訳ない気持ちになってしまいました。すぐに向かいのおじさんとも仲良くなり入院生活を満喫していました。ただ夜中のイビキには何回も起こされたことがあったけど・・・

病院の食事も普通に美味しいし何の問題もなく手術日を迎えました。喉に麻酔の管を突っ込んだ瞬間に、記憶がなくなった事を覚えています。【2003年 12月15日のことでした】

このあと「脳腫瘍」の恐ろしさを知ることになります。あまり考えずに手術に臨んだ自分は完全にナメていました。

手術は6時間にも及んで無事に成功しましたが≪話すことも、右半身を動かすことすら出来ない≫最初の一週間は地獄でした。言いたいことも言えないので(点滴の針が痛いってことも言い表せず、ずっとアウガァー、アウガァーと奇声を発したり、鼻が詰まっていてもかめないので暴れたり)ほんとに辛かったです。それでも父とまわりの親族に助けられて(ご飯を口元まで運んでもらったり、オムツを換えてくれたり)ほんとに助かりました。

術後、知り合いが来てくれて、ベッドの上で話したいし、動きたいけど何も出来ない自分に、その場で泣いてしました。なんで涙は出るのに・・・

リハビリ・回復力
(27歳)

「リハビリ・回復力」写真

病院でリハビリ漬けでしたが、信じて頑張りました。一週間くらい経った時、かなり回復はしましたが運動神経と言語と記憶力が全然本調子じゃなかったです。

先生が言っていたとおりの症状になりました。先生は「一過性」だから大丈夫だといっていましたが、このままだったらどうしようと何度も考えました。でもあんなにみじめだった自分がこんなに凄いスピードで回復するとは思っていませんでした。

2週間くらい経って、まだまだ退院できる状態じゃないけど、病院で年を越すのも嫌だったので、先生に無理を言って退院させてもらうことになりました。退院してからも少しの間、リハビリにも通ったし、毎日の何気ない行動が全てリハビリになりました。買い物をしてお金を出そうとしても思うように出せなかったり、まだまだ自分の言いたいことを言い表せない状態が続きました。

そんな中、親戚の伯父さんから、家でゆっくり治さないかと連絡がありました。自分も一人暮らしで心細かったのもあったので「行かせてもらいます」と言いました。

その伯父さんには娘が3人いて、たくさんの孫が来ていました。最初のほうは全然喋れなくて(喋りたいけど言葉がなかなか出てこない)子供たちに恐がられていました。でも最終的には仲良く喋れるようになり、みんなにお兄ちゃんと呼ばれるまでになりました。一週間くらいでしたが、これもいい経験になりました。

伯父さんのファミリーに感謝です。

お爺ちゃんの死
(27歳)

「お爺ちゃんの死」写真

手術後一ヶ月くらい経過した時に、また不幸な知らせがありました。それはお爺ちゃんが死んでしまったのです。お爺ちゃんとは小学校までは、大型の休みになると遊びに行っていて、とても可愛がられていました。

けっして怒らない優しいお爺ちゃんが大好きでした。その人が老衰とはいえ、死んでしまって、とても悲しかったです。

そして何よりも悲しかったのはお婆ちゃんだと思います。娘に先立たれ(自分の母)、お爺ちゃんにも先に逝かれて、本当に寂しいと思います。だから自分が「脳腫瘍」なんてことは言えません。入院してた時も父親側の親族にしか言っていませんでした。

自分は昔から坊主はあまりやった事がなくずっと中~長髪でした。その自分がいきなり坊主で母親側の親族はビックリしていました。でも手術したなんて言えないので、ちょうど年明けだったので『気分変えようと思って切った』と言いました。

お坊さんがお経を唱えている時に、お爺ちゃんの思い出が頭に蘇り(虫・亀・ザリガニ・魚などを捕まえに、いつも二人とも泥んこになっていた)大泣きしてしまいました。

ここでもお爺ちゃんから愛されていた事を実感しました。

煙草・酒
(27歳)

「煙草・酒」写真

手術から一ヶ月ちょっと経った時、友達が引越しをするから手伝ってくれと言われて、普段お世話になっている友達なので気軽に手伝いに行きました。友達の家まで自転車で向かったのですが、道に迷ってしまいました。

方向感覚はいい自信があるし、何度か家の近くを通っているのに、どうして思い出せないのだろう?くやしかったです。記憶もまだまだです。普通なら25分で着くところが、迷いながら45分もかかってしまいました。

普段は重いものは持たないので、順調に右半身も回復していると思っていたのですが、引越しの作業が始まって痛感させられました。重いものを持ったら右半身が思うように動きません。

タンスなど運ぶ時に、ここ一番の踏ん張りが利かず、あまり役に立てなかったです。そんな自分にイライラをつのらせていました。友達も自分のことを感じ取っていたみたいです。結局軽い物ばかり運んでいました。引越しを手伝ったお礼に焼肉をおごってもらいました。100%回復には、まだまだだなー。

二ヶ月くらい経った時に、自分の体がようやく目覚めつつあるところまできました。(85%回復)そしてその余裕からか、止めたはずの煙草を吸ってしまいました。ここから一年くらいは煙草を止めたり吸ったりが続きました。お酒も飲みだしたのですが、もともとお酒は好きではなかったのですぐ止めれました。

そして退院後の初サーフィンに行き、このあと調子に乗った生活に戻ってしまいました。(90%回復)

パチスロで食いつなぎながら
(27~28歳)

「パチスロで食いつなぎながら」写真

最初はやりたいことが見つかり、それを友達と進めていましたが、うやむやになり途中で投げ出してしまうことになりました。また悪い癖がでてしまいました。

そして退院後に初めてパチスロを打ちましたが、この機種が史上最悪にイライラする機種でした。

自分なりに分析しましたが手術をしてから、イライラした時は気持ち悪くなることが多く、何かしらの影響が出ていると思ういます。だからといって平然を装って打つことは出来ますが、心の中では多かれ少なからずアドレナリンみたいなのが出ていると思います。これが危険なんだと思っています。

この後、発作が頻繁に起きるようになり病院へ行くことになりました。(特に暑いところは苦手で熱い食べ物を食べる時も気を付けないと発作が起こってしまう)しかし曜日が違ったので担当医も違う先生になってしまいました。自分が悪いのですが担当医は変えないほうがいいと思います。やっぱり最初から自分のことを見ている先生が、一番自分を理解していると思います。そして「MRI」の結果が出ました。

史上最悪にイライラするパチスロの機種が原因と思われるのですが再発でした。(自分なりの解釈です)

再入院をするが今回は手術出来ない
(2005年5月21日 28歳)

「再入院をするが今回は手術出来ない」写真

先生の説明が始まると腫瘍の部位は進行していて、そこを採ると言語と右半身にかなりの影響が出てしまうと言われました。

結論は手術はせず「放射線療法」と「化学療法」をやることになった。今回もいっぱい友達が来てくれました。なかでもポータプルDVDはかなり助かりました。そんなこんなで今回も有意義に病院生活を送れましたが、これから先どうなるか心配でした。

薬漬けに点滴に放射線の毎日でした。自分の場合は月曜~金曜を続けて照射して、土日は休むサイクルで5週間続けました。

入院中何度も「痙攣発作」が起きました。帽子無しでは恥かしくて外に出られないくらい、髪の毛も抜け落ちてしまいました。そして数回の放射線を残して通院で大丈夫と言われ、退院することになりました。

テモダールの許可をもらうため他の病院へ
(28~29歳)

「テモダールの許可をもらうため他の病院へ」写真

この頃はまだ「テモダール」が承認されていなかったので、高いお金を払わないと買えませんでした。(保険が利かなかったが、2006年9月15日保険適用となる)

自分はテモダールの対象になると思っていたので「テモダール」を扱っている病院に行きました。「MRI」を撮るたびに何度も相談しに行きました。だけど『あなたの場合は「MRI」の状態もよいし、体の調子もよいらしいので今は飲まなくてよいでしょう』、『今度、腫瘍が大きくなり始めたら考えましょう』と言われました。

早くテモダールを飲みたかった気持ちもありますが、先生が言っているのだからそれに従がうことにしました。

パチスロとの別れのはずがまた調子に乗る
(29歳)

「パチスロと別れたはずがまた調子に乗る」写真

2006年、一月の途中から体の調子がよいので、パチスロを再開することにしました。しかし四月にに入り様子が激変してしまいました。

「放射線」をあててからも「痙攣発作」は月1回くらいで起こっていました。しかしちょっとパチスロを打つと気持ちが悪くなって、発作が起こりそうになってしまいます。

先生に聞いたところによると(チカチカしている)(うるさい)(煙草の煙り)は発作を誘発するらしいのです。ドンピシャです。これではパチスロどころではないです。(お金を取るか体を取るか・・・体でしょ)

パチスロ生活を諦める事にしました。正直自分の一番誇れるものと言えば昔からやっているパチスロが頭に思い浮びます。そのパチスロとこんなかたちでお別れするとはつら過ぎます。

やはり再発した時にパチスロを封印しとけば良かった。自分が言いたかったのは『脳腫瘍をなめたらアカン』ってことです!

発作の恐怖と闘いながらバイト生活
(29~30歳)

「発作の恐怖と闘いながらバイト生活」写真

パチスロでだいぶ体調を悪化させてしまい、いままで数えるほどしかやったことのない、アルバイトを探すことになりました。

一度に色んなことをすると頭の回線がおかしくなるので、条件は単純作業で人に気を使わないバイトです。 単純作業で一人でやるバイトが見つかりました。

条件は全て一致していたと思っていたのですが、外勤だったので自分が暑さに弱いことを忘れていました。暑い時期だったので案の定、何度も「発作」が起こって倒れてしまいました。

この後も幾つかバイトをやりましたが、病気に気を使いながらやるバイトでは収入が少なすぎます。

そしてパソコンで出来る仕事を探すことに。

ホームページ開設
(30歳)

「ホームページ開設」写真

パソコンを使って家で出来るような仕事をいくつも探しました。メール受信・懸賞・アンケートなど色々ありましたが、あまりお金にならないらしいです。

ホームページにアフィリエイト(広告)を貼ってお金を貰うシステムがあってそれが良いと思いました。ホームページの作り方を一から勉強してやってみたけど、難しいしよくバグるし大変でした。

ブログに変更
(30歳)

ホームページのソフトがバグり過ぎるのとブログの方が楽に更新出来るのでブログに変更することに。ブログの方が圧倒的に楽です。ただ自由度に欠けますがそこは使いやすさで十分カバー出来ています。

ホームページから合わせて8ヶ月間休み無しで更新しました。しかし終わることになりました。

お金になんなくてで空しかったです。アフィリエイトもそんなに甘くなかったです。

父の家へ
(30歳)

この体で食い繋いで行くには無理と判断したので父のとこでお世話になることになりました。父は元板前なので休みの日にはちゃんと食事を作ってくれます。

お金のことは全て甘えています。しかし自分も何かやらなければと日々思っていました。

再々入院
(2007年9月21日 31歳)

「父の家へ」写真

父の家にお世話になって少し経ったとき、暑さでおかしくなり家の中も這いつくばっていたらしいです。「発作」は起きていないらしいです。(この時の記憶はあまり覚えていません)そして父が通っている病院に連絡をしてくれて即入院することになりました。

誕生日に入院です。入院してから暫くは記憶が曖昧な生活が続きました。テモダールを飲んでからだんだん意識を取り戻してきたみたいです。(看護士さんに談)とうとうテモダールを使ったのです。

テモダールのお陰で体調も良くなり退院することになりました。しかし父の家に住むことになって家から病院まで遠くなりました。

共同作業
(31歳)

「共同作業」写真

2日に1回くらい散歩をする日々が続きました。そんな中以前からブログで交流のあった、jiveさんのページをのぞいてみました。すると精力的に活動しているjiveさんに衝撃を受けてこのままじゃダメだと思いメッセージを送りました。

jiveさんとは歳が1つしたで「自分が左脳」「jiveさんが右脳」でパチスロのことも凄い詳しくてなんだか馬が合います。価値観も似ていて前から会ってみたいと思ってました。

メッセージの返事が返ってきました。内容は今行っている活動内容が事細かに記されていました。そして『クロロさんの住所を教えていただけませんか?』とも書いてありました。たまたま自分達の住んでいる県が一緒だったのです。

自分もこのままじゃいけないと思い『自分に出来ることがあれば手伝わせて下さい!』と伝えました。すぐに話は進み家まで来てくれることになりました。

病気のせいで車は運転できないので、施設関係の人に送ってもらって家までやってきました。施設の人を交えてjiveさんと色々話し合いました。常識があって思いどおりの方でした。その日には決まらなかったけど連絡を取り合っているうちに『2人でホームページを作ろう』って話が盛り上がりました。

そして2人共同のホームページ『余命宣告.com』が開設しました。

『脳腫瘍をなめたらアカン--大雑把な経歴』

*過去に自分のホームページに書いた自分史です。(クロロ96)

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