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クロロ96の講演

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みなさんはじめまして。おはようございます。ウェブ上ではクロロ96、本名は○○です。今日は自分の歩んできた道のりと病気の怖さを皆さんに伝えようと思って○○の田舎からやって来ました。

初めに、自分の生きて来た道のりをざっと説明したいと思います。

高校1年の頃にパチスロと出会って、そこでパチスロ人生がスタートしてしまいました。病気をするまでの間、ほとんどパチスロばかりやっていました。収入もほとんどがパチスロによって稼ぎ出すことになりました。

19歳のとき、東京に行きました。最初はおばあちゃんの家に泊めてもらっていたのですが、帰りが遅かったり夜中まで電話をしていて眠れないという理由から口論になり家を追い出されました。おじいちゃんは昔から優しくて怒られた記憶もないです。おじいちゃんはそっと寝袋を渡してくれました。

東京に住むなら下北にしようと決めていました。しかし頭金を稼がなくてはなりません。無駄づかいは出来ません。朝から閉店までパチンコ屋に居てそこから寝床を探します。パチンコ屋には大きなリュックを足元に置いてやってました。やっと目標金額が貯まりました。

自分の借家です。家を借りるのにかなりのお金が無くなったので朝はパチンコ屋、夜はコンビニの深夜を掛け持ちで働きました。この時の睡眠時間は人生で一番短い時期でした。

徐々にお金の余裕が出来始めてコンビニを4ヶ月ほどで辞めてパチスロ一本だけにしました。

そして母親に仕送りを出来るくらいまで稼げるようになりました。いつも途中で逃げ出していた自分がやっと見つけたモノこそ「パチスロ」だったのです。

26歳のころのことです。父と母は別居中でした。そんな中、父親から電話がかかってきました!母親の体調がよくないらしい。母親は昔から高血圧で体がよくなかったです。すべて自分が心配を掛けたせいだと思っています。

だからと言っちゃなんですが、罪滅ぼしまではいかないけど仕送りをしていました。

新幹線で京都の家に向かっている途中、父親からの電話で『お母さん死んだらしい』という通達がありました。あまりにも急な出来事でした。

母親の部屋を掃除していると昔の日記が出てきて、そこには『今日クロロと買い物に行きました』、『今日はクロロがカブトムシを捕まえてとても喜んでいました』といった自分のことしか、つづられていない日記が出てきました。

自分が愛されていたと実感した瞬間、目から涙があふれてきて、生まれて初めてこんなに泣きました。近くに俺が居てやればこんな事にはならなかったのに・・・と後悔しました。

部屋がグチャグチャで友達にも片付けるのを手伝ってもらいました。その時に助けてくれた友達とは今でも親友です。

27歳のとき、更なる不運が訪れました。ラーメン屋で突如わけの分からない出来事が起きました。最後までスープをすすったその瞬間、突然自分の体が制御不能になり痙攣を起こしました。

初めて救急車に乗りました。その時の記憶は全く覚えていないです。人生初めての入院でした。「CT」の結果、脳に何かがあるらしい。急いで紹介された大学病院に行きました。

なんと自分の頭に腫瘍があるそうです。「脳腫瘍」と呼ばれるもので、いわゆる脳の癌みたいなものです。手術は無事に成功しましたが話すことも、右半身を動かすことすら出来ず、最初の一週間は地獄でした。

言いたいことも言えないので、点滴の針が痛いってことも言い表せず、ずっとアウガァー、アウガァーと奇声を発したり、鼻が詰まっていてもかめないので暴れたり、ほんとに辛かったです。

それでも父とまわりの親族に助けられて、ご飯を口元まで運んでもらったり、オムツを換えてくれたり、ほんとに助かりました。こんなにも身の回りのことを自分で出来ない事が辛いとは思いませんでした。

術後、知り合いが来てくれて、ベッドの上で話したいし、動きたいけど何も出来ない自分に、その場で泣いてしました。なんで涙は出るのに話せないの、動けないの・・・先生に無理を言って退院させてもらうことになりました。

毎日の何気ない行動が全てリハビリになりました。買い物をしてお金を出そうとしても思うように出せなかったり、まだまだ自分の言いたいことを言い表せない状態が続きました。

術後もの凄いスピードで回復していきました。しかし術後1ヶ月くらい経過した時に、また不幸な知らせがありました。それはお爺ちゃんが死んでしまったのです。

お爺ちゃんとは小学校までは、大型の休みになると遊びに行っていて、とても可愛がられていました。けっして怒らない優しいお爺ちゃんが大好きでした。その人が老衰とはいえ、死んでしまって、とても悲しかったです。

そして何よりも悲しかったのはお婆ちゃんだと思います。娘に先立たれ、お爺ちゃんにも先に逝かれて、本当に寂しいと思います。だから自分が「脳腫瘍」なんてことは言えません。入院してた時も父親側の親族にしか言っていませんでした。

お坊さんがお経を唱えている時に、お爺ちゃんの思い出が頭に蘇り(虫・亀・ザリガニ・魚などを捕まえに、いつも二人とも泥んこになっていた事を思い出し)大泣きしてしまいました。ここでもお爺ちゃんから愛されていた事を実感しました。

28歳のときのことです。何とかパチスロで稼げるくらいまで回復しました。自分なりに分析しましたが手術をしてから、イライラした時は気持ち悪くなることが多く、何かしらの影響が出ていると思います。

感情、精神を安定させる事が発作に繋がらないとわかりました。史上最悪にイライラするパチスロの機種が原因と思われるのですが、再発してしまいました。

腫瘍の部位は進行していて、そこを採ると言語と右半身にかなりの影響が出てしまうと言われました。結論は手術はせず「放射線療法」と「化学療法」をやることになりました。

今回もいっぱい友達が来てくれました。

薬漬けに点滴に放射線の毎日でした。自分の場合は月曜~金曜を続けて照射して、土日は休むサイクルで5週間続けました。

入院中何度も「痙攣発作」が起きました。帽子無しでは恥かしくて外に出られないくらい、髪の毛も抜け落ちてしまいました。

そして数回の放射線を残して通院で大丈夫と言われ、退院することになりました。

2006年、1月の途中から体の調子がよいので、パチスロを再開することにしました。しかし4月に入り様子が激変してしまいました。

「放射線」をあててからも「痙攣発作」は月1回くらいで起こっていました。先生に聞いたところによると、パチスロの、チカチカしている、うるさい、煙草の煙りは発作を誘発するらしいのです。パチスロ生活を諦める事にしました。

正直自分の一番誇れるものと言えば昔からやっているパチスロが頭に思い浮びます。そのパチスロとこんなかたちでお別れするとはつら過ぎます。

やはり再発した時にパチスロを封印しとけば良かった。自分が言いたかったのは『脳腫瘍をなめたらアカン』ってことです!

パチスロでだいぶ体調を悪化させてしまい、今までほとんどやったことのない、アルバイトを探すことになりました。一度に色んなことをすると頭の回線がおかしくなるので、条件は単純作業で人に気を使わないバイトです。

単純作業で一人でやるバイトが見つかりました。条件は全て一致していたと思っていたのですが、外勤だったので自分が暑さに弱いことを忘れていました。暑い時期だったので案の定、何度も「発作」が起こって倒れてしまいました。

この後も幾つかバイトをやりましたが、病気に気を使いながらやるバイトでは収入が少なすぎます。しかしそう簡単に見つかる訳も無く時間だけが過ぎていきました・・・30歳のときのことです。

そしてパソコンで出来る仕事を探すことにしました。家で出来るような仕事をいくつも探しました。ホームページに(広告)を貼ってお金を貰うシステムがあってそれが良いと思いました。

ホームページの作り方を一から勉強してやってみたけど、難しいしよくバグるし大変でした。ブログの方が楽に更新出来るのでブログに変更することにしました。

ホームページから合わせて8ヶ月間休み無しで更新しました。しかし終わることになりました。お金になんなくて空しかったです。

分かっていましたが在宅で稼ぐのはそんなに甘くなかったです。この体で食い繋いで行くには無理と判断したので父のとこでお世話になることになりました。

父は元板前なので休みの日にはちゃんと食事を作ってくれます。お金のことは全て甘えています。しかし自分も何かやらなければと日々思っていました。

父の家にお世話になって少し経ったとき、暑さでおかしくなって家の中も這いつくばっていたらしいです。「発作」は起きていないらしいです。この時の記憶はあまり覚えていません。

31歳の誕生日に入院することになりました。入院してから暫くは記憶が曖昧な生活が続きました。テモダールという薬を飲んでから、だんだん意識を取り戻してきたみたいです。

テモダールというのは、グリオーマの進行を抑える抗がん剤のひとつです。とうとうテモダールを使ったのです。

テモダールのお陰で体調も良くなり退院することになりました。だけど家から病院まで遠くなりました。2日に1回くらい散歩をする日々が続きました。

そんな中以前からブログで交流のあった、jiveさんのブログをのぞいてみました。Jiveというのは、今、ここにいる■■さんのことです。

jiveさんとは歳が1つ下で「自分が左脳」「jiveさんが右脳」でパチスロのことも凄い詳しくてなんだか馬が合います。価値観も似ていて前から会ってみたいと思ってました。

送ったメッセージの返事が返ってきました。『クロロさんの住所を教えていただけませんか?』とも書いてありました。

自分もこのままじゃいけないと思い『自分に出来ることがあれば手伝わせて下さい!』と伝えました。すぐに話は進み家まで来てくれることになりました。

連絡を取り合っているうちに『2人でホームページを作ろう』って話が盛り上がりました。それからも毎日のように連絡を取ってHPや講演に向けての話を進めていきました。そして2人共同のホームページ『余命宣告.com』が開設しました。

以上が、自分の生きてきた道のりです。

病気になってから最初の頃は今までと何変わり無く過していました。なんなら病気をしてからの方が何かが吹っ切れていた気がします。

でも時が経つにつれて体調も悪くなって今まで簡単に出来たことが少し難しくなってきました。

今までパチスロで稼いでいたのにパチンコ屋に入れなくなりました。タバコの煙を吸うとすぐに気持ち悪くなってしまうのです。職場を失ってしまったのと一緒でした。

これからもパチスロを頑張って行こうと思ってたのに。自分が最も得意とすることが出来なくなってとても切なくなりました。

そして再々入院からも、退院してバイトを探し始めましたが未だ見つかりません。せめて働くことさえ出来れば父と気兼ねなくやっていける気がします。

昔から大きな病気にかかったことが無かった自分は健康など気にもしていませんでした。しかし健康ということは当たり前だと思わずに、もっともっと自分の体を大事にして欲しいです。

でも病気にならないと健康の有り難味は中々分かりませんよね。どうしたら健康がいかに大切って事が伝わるのかをずっと考えました。そうなると自分が見本になってみなさんに見てもらわないとダメかなと思いました。

自分は障害がきつい方ではないけど喋り方は少し変だと思います。なので脳の病気になったらこういう風になるって事を少しでも頭の片隅に置いといて下さい。

余命宣告ってこういうことなんだよ。みんなは各駅停車だけど自分は特急で寿命が近づいて行きます。

決して出口が無い途中下車の出来ない先が見えない真っ暗な闇の中を歩くように、ただ時間だけが死に向かって過ぎて行くかのように感じます。

以上を持ってクロロ96の講演は終らせて頂きたいと思います。

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