病気になってから気づいたこと(jive宇都宮)
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直接ではないけれど、「病気になってから気づいたことは何?」というような質問を受けることがある。
僕は、正直な思いを、この「余命宣告.com」に書くと決めている。だから、必要以上の推敲はしない。思ったことを率直に書く。
おそらく、その質問の裏側には、「命の大切さを知った」とか「家族の大切さを知った」という回答が欲しい、という潜在的な願いがあるのだと思う。
だから、出版されている闘病記の類は、内容が悲惨でかつ感動を誘うものであればあるほど売れるし、戦争や飢餓など、極限状態を描いた映画や小説も、人々の耳目を引く。
その全てがカタルシスである、とは言わない。しかし、自分が体験し得ないことを疑似体験することで、新しい発見をしたい、という気持ちは、どこかにあるのだと思う。
「病気になって気づいたことは?」への僕の回答、それは、「何も気づかなかった。」だ。
もっと正確に言うなら、「28歳の発症時点までで命や、家族の大切さ等について気づいていたこと以上のことを、発症以降には気づかなかった」と表現できる。
かつての自分が何でも知っていた、と偉ぶるわけではない。もちろん、闘病生活を通じて、命や家族のありがたさを「再認識」したことは何度もある。今後もあると思う。
ただ、何度考えなおしてみても、僕自身は、新たに何かに気づいた記憶は無い。
もちろんそれは、僕の生い立ちとも関係していると思う。
2歳のとき、川崎病にかかった。舌が腫れあがった僕をみて、両親は、「覚悟した」という。18歳になるまで、僕は毎年、心臓のエコー検査を受けていた。母からは、「あのとき、死ぬと思ったんだから、あんたは生きているだけでいい」と言われて育った。
残念ながら、10代の後半から、僕の「神経症」は悪化した。
うつ病の薬を飲んでいた。しかし、当時の日記を読み返すと、「てんかん発作」や、「手のまひ」的な症状をその時点で体験していることが分かる。
病院には通っていたが、まさか、脳に腫瘍があるとは思わなかった。
僕のイライラは23歳ぐらいから、増していった。だから、アパートを借りて、家を出た。ひとりになりたかった。何をするか分からなかった。
それでも、病気を隠し通して、僕は、半年契約の教員を始めた。中学校、そして、重度しょうがいを持つ子どもたちの通う養護学校で働いた。最後の職場には4年間いた。
しょうがいを持つ子どもたちと向き合いながら、そしてときには、生徒の葬儀に参列しながら、僕は多くを学んだ。
いつ、自分は死んでもおかしくない、と思った。
あるとき、自分が急に病気になっても、それは、仕方のないことだ、と思った。
今、生きていることに感謝しよう。
今、できることをしよう。与えられた条件でベストを尽くそう。
自分の中で、価値観が形成されていった。
そして養護学校で3年と9か月働いた、28歳の誕生日に、僕は、最初のてんかん発作を起こした。今から考えれば、それが最初ではなかったのかもしれない。
「グリオーマは現代医学では治せない病気です」
医師に告知されたとき、僕は、それほど驚かなかった。
「ああ、自分にも、ついに来たか。」と思った。
脳の病気で苦しむ子どもたちと接していた。僕は彼らを愛していた。彼らがあれだけ頑張っているのだから、自分も負けるわけにはいかない、自然に、そう思うことができた。
もちろん、そのあと、落ち込んだり、恐怖でおかしくなったり、いろいろなことがあった。
でも、僕の基本的な立場は、それほど変わらない。
これから、もっと発作が増えていけば、さらに新しい何かに気づくかも知れない。これまで書いたことを全部ひっくりかえすようなことを言い出すかもしれない。
だから、日付を入れておく。平成20年2月24日(jive宇都宮)