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希望について(jive宇都宮)

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「希望」という言葉が好きだ。病を得てから、ではなくて、高校生くらいの頃から好きだった。大学、そして社会に出て今に至るまで、僕は、「希望」について考え続けてきた。

よく、人から『希望を持ってね』と声をかけていただくことがある。「ありがとうございます。」と答える。病気の僕を励まそうと思ってのお言葉なので、もちろん嬉しいし、感謝もしている。

でも、心のどこかに、“お言葉はとても嬉しいのですが、僕は、今も昔もずっと希望を持ち続けています。”と感じる自分がいる。

「今は不治の病と言われているけれど、医学が進歩して、よい薬や治療法が開発されるかもしれないから、希望を持ってね」という言葉をいただくと、当然、それは、グリオーマという病と共に生きる自分にとっては、具体的で望ましい“希望”だよなぁ、とは思うけれど、僕にとっての「希望」は、もっと内面的なことなのだろうな、と思う。

病気が治るのなら、それが一番良い。てんかん発作が減ったり無くなったりするのなら、もっと良い。「そうなったらいいな」と思うし、もちろん、諦めてもいない。

希望、という言葉を口にするとき、僕は、心の中に灯が点るのを感じる。死におびえることも、てんかん発作の苦しみに耐えることも、徐々に衰えていく体力を悲しむことも、すべて、今の僕にとっては、日常そのものだ。

「現代医学では治らない病気です」と、最初に医師から告知された。でも、それは、すぐに死ぬと言うことではなかった。症例の多い病気だから、自分がこれからどうなるのかは、主治医からの説明で、だいたい分かっている。

今は、こうしてキーボードに向かっている。次の瞬間、大きな発作が起きて、再発、というようなことにでもなれば、これが、僕の最後の記事かもしれない。

でも、僕は、当然明日があるものとして、このページを保存し、サーバーにアップロードする。明日はアルバイトがあるので、持ち物の点検をしてから布団に入る。明後日は打ち合わせがあるから、会議の資料を作らなくてはいけない。月末までに頼まれているコンピュータ関係の仕事もあるから、それも片付けなくてはいけない。

人に迷惑をかけてはいけないから、可能な限りの危機管理はしているけれど、「いつどうなるか分からない」は、僕にとっては、毎日のことなので、そのときそのときを、丁寧に生きていくしかない。

毎日を生きる、ということが、僕にとっては、「希望」そのものだ。

病を得る前は、自ら命を絶つ人について、僕は、少し批判的だったと思う。でも、今は、状況によっては仕方の無いことかもしれない、と思う。死んだことは無いので、死ぬとどうなるかは知らないけれど、“死ぬよりも苦しいのでは”という苦しみと日々向き合っていれば、自ら死を考えることは、じゅうぶんにあり得ると思う。

もちろん、僕は死なない。将来、一番苦しむであろうとき、僕はもう、自ら命を絶つことが出来ない状況に陥っている、と知っていても、当然、死なない。

心に希望の灯を、持ち続けたいと思う。

支えてくれる妻や、家族や、友人や、先輩や、仲間が、力をくれる。でも、それを燃やすのは己の力だ。

絶望は、底が無いから絶望なのだと思う。でも、だからこそ、僕は、生きている。希望を持って生きている。

(jive宇都宮 2009.5.25)

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